2種類ある<創造主の悦び>の話
今まで知らなかったのですが、かなり有名な方らしく、めっきり読み込んでます。
こちら、Chikirinさんの日記です。先日は新しく本を出されたばかりでKindleで早く読みたくてうずうずしています。(Kindleでは明日、月曜日にダウンロードできるそう)
このChikirinさんのブログに<創造主の悦び>というエントリがあり、思わず読み込んでしまいました。
以下、一部抜粋。
本名の「私」は、私の両親の作品であり、生まれ育った環境や、一緒に働いてきた人達や、そこで与えられた様々な機会によって育てられた作品です。つまり、この世界での私は「結果」であって、「創造主」じゃないんです。
でも「ちきりん」は、私が創り出し、育て、運営してきた「私の作品」です。自分の作り上げた作品が、こんなそうそうたるメンバーのひとりとして扱われてる。そのことを、すごく嬉しく感じました。
つまり人は、自分が認められることより、自分の作品が認められることのほうが、嬉しいんです。
激しく共感します。
自分探しはもちろん、自己研鑽とか、「自分を高める」とか、いくらやってても、どこかで空しくなる。 「あれ? つまり何をやりたかったんだっけ?」ってことに、なってしまう。
手間暇かけるべきは「自分」じゃなくて、「自分の作品」のほうです。「自分の成長」にこだわるのではなく、「何かを生みだすこと」に注力しましょう。そのほうがよほど大きな悦びが得られます。
「これを創ったのはオレだ、私だ」と言える作品。そういうモノが持てるというのは、ほんとーに幸せなことだから。
簡単に抜粋していきましたが、是非全文読んでください。
誰しも何かしらで経験する部分はあるのではないでしょうか。個人的には最近学生団体の代表を降り、後輩に引き継いだ時に感じたものがすごくこれと似ていた気分でした。
ただ、この<創造主の悦び>には大きく2種類あるのではないかなと思います。
2種類の<創造主の悦び>
①創造したものが自我を持っていない場合(Chikirinさんがおっしゃるブログなど)
②創造したものが自我を持っている場合(自分の子供など)
以上、2種類あってこれをごっちゃにしてはいけない段階が来ます。
①は簡単でとにかく淡々と進めていけばよいのですが、②はそうそう簡単にはいきません。あるレベルで自分で動き出す瞬間が到来します。それを予期しているかどうか、それを受け止める器があるかどうかで、創造主として悦び続けれるかどうかが決まると思うんです。
例えば「親離れ子離れ」が代表的な例でしょうか。
親は自分の創造した子供をとても可愛がります。もちろん子供が何かを成し遂げたりすれば嬉しいわけです。ただ、ある時にそれはやってきます。反抗期からの思春期です。これを理解し、受け止めれる器がなければいけません。
つまり、自分の創造したものが自分の意に反することを大いに喜べるかどうかということです。愛着が沸くということは、同時にコントロールしたくなるものです。
もちろん、全てを予期し受け止めれば、これ以上幸せな悦びはないでしょう。
しかし、拒めば永続的な悦びはそこにありません。難しいですね。
自分の団体も自我を持っている部類に入ります。僕がいなくとも動き続けますから。もちろん新しいプロジェクトだって始まります。そしてそれを僕はフェイスブックで知ります。笑
なかなか複雑な気分ですが、自分の悦びのためにも全力で応援していますし、何より自分が創設した団体でもないのにここまでの愛着を持たせてくれた団体には感謝です。
話がずれましたが、自分が創造しているものが2種類のどちらでいつ頃思春期が到来するのかは事前に予期しておいて損のないことなのだな、と。
ちなみに、あと2日で誕生日を迎える僕は創造主に感謝するべきなのかもしれません。笑
意外と代表を降りてから学ぶことのが多いかも、、??笑
Chikirinさんのブログも面白いので是非ご覧ください。
なかじーのぼやきでした〜。